くりでん沿線散策・後編(宮城県)
2007-03-24


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エポカで一泊した翌日、再びJRくりこま高原駅前からくりでんの沢辺駅まで移動し、今度はくりでんの終点の細倉マインパーク駅まで一気に移動した。くりでんの車内が満員だったのは昨日と同じで、結局車窓の景色に浸るなんてことはできなかったことが今回の旅の大きな失敗であった・・・。

終点まで満員だったくりでんから一斉に降りた大量の乗客は、駅名にもなっているテーマパークの細倉マインパークに向かったり、映画東京タワーのロケ地に向かったりしていたが、1/3ほどは降りても駅から出ることも無くホームに残り、再び折り返しの便に乗って戻っていた。

そんな中、自分が向かったのは駅から北へと向かった山の中にある計須見城である。別名で保呂羽館ともいい、平安時代に無冠太夫伯元の居城として登場するが、その後は安倍貞任に攻略され、前九年の役では渕牛城を落とされた安倍氏が次に立て篭もった城として登場する。その後は室町時代に富沢氏家臣の遊佐黄海の居城として再び使用されたようである。

砂利道を進みながら山を登って行くが、雪はかろうじて少ないものの風が思いのほか強くて寒い。ルート的には計須見城の裏側から登ってきているので、これといった遺構は確認できないまま城の最高所から南側へ100m程手前まで登ったが、ちょうど視界が開けた場所があってそこからの眺めは素晴らしいものだった。だが、少し進んだ先の頂上へ向かう分岐は何やらチェーンで封鎖されており、別に有刺鉄線が張られてるとかではないので進むことは可能だが、何か問題があったら嫌なので今回は引き返すことにした。また来る機会があったら今回とは逆の城の正面から登ってみようと思う。

計須見城から消化不良のまま細倉の集落へと戻った後は集落を望む位置にある金田森の独立丘陵へと登った。ここからは細倉全体を見渡せるほど眺めが良く、頂上には電波塔が3基ほど立っている。ここも往時は砦跡だったと伝わるが、手持ちの資料には出てこないので詳しくは判らない。山の頂上に電波塔の立つ平場があり、その西側の低い場所にも広い平場がある。頂上の東側の一段低い場所も小さな平場となってるが、車道を作る際に出来たものとも考えられるのでこちらはハッキリしない。とりあえず、急峻な地形と展望の良さ、そして鉛川沿いの要地という中々の好条件の城跡であると言える。なお、この丘陵の東側の小山には何やら模擬天守閣のような建物があるが、残念ながら中は空っぽだったので何に使われていたのかは不明である。

一通り城廻を楽しんだ後は細倉の駅前にある「だるま屋」でオロチョンラーメンを食べたが、これがなかなか辛味が程好くて個人的に美味しかった。ここで昼飯を取った後はくりでんに乗って栗駒駅まで移動した。

栗駒駅に着いた後は岩ヶ崎の町の北側の丘陵にある岩ヶ崎城へと向かった。城跡へは車道が通っており、現在は館山公園として整備されているため行くのは簡単だったが、城の大手は整備されておらず、公園へは城の裏側から入るような形になっていた。上行寺側から登って来た為、まず最初に訪れたのが本丸となってしまったが、本丸からは岩ヶ崎の町が一望できて素晴らしいものだった。また説明板や城碑なども本丸にあったが、説明によればかなりの数の郭が岩ヶ崎城にはあるようだった。本丸の南側には下に向かって数段に渡り郭が築かれており、桝型状の門跡のような部分もある。郭は3段ほど下の最も大きな郭まで公園として整備されていたが、そのさらに下の雑木林にも削平が見え、どうやら山の麓まで続いているように見える。普段、山城の公園は下からどんどん登っていく感じだったが、この館山公園はまず最高所の本丸から入って下の郭へと下っていく感じで整備されていて面白い。南の郭まで降りた後は再び本丸まで登って戻り、今度は東側の二の丸跡へと向かった。


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[城跡]

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