くりでん沿線散策・前編(宮城県)
2007-03-22


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3月も後半に入った週末、宮城県北部へと出かけてきました。今回の目的は今月で廃線となる「くりはら田園鉄道」(以下:くりでん)に乗ることであり、ついでに城廻もしようということで、くりでんの主要駅周辺の城跡へと出かけてきました。

初日は予定では石越駅でくりでんに乗り換えるはずだったが、手違いでくりこま高原駅まで行くことなったので、そこからバスでくりでんの沢辺駅まで移動した。到着した沢辺の駅舎は週末だったことと廃線効果が相まって人で埋まって外に溢れており、ローカルな風景には似つかわしくない光景がそこにはあった(笑)とりあえず自分が乗る予定の下り線の到着まで1時間ほど待ちがあったので、沢辺駅から川を挟んで南にある沢辺館跡に出かけることにした。

館跡は葛西氏家臣の沢辺氏の居館跡で、三迫川に面した丘陵にあり、現在は臥牛館公園として整備もされているので難なく到着することができた。館跡の北側斜面の車道を通って丘陵へと登ったが、北側には数段の腰郭がはっきり残っており、車道も腰郭を斜め上に削るように作られていることがハッキリと確認できた。また、登る途中の車道の西側には大手とされる旧道がハッキリ残っており、車道はその大手道を塞き止める形で埋め立てて通っていた。大手道方面もやはり郭がハッキリと残っており、大手口の外側には小さな不動神社が祭られていた。再び車道まで戻り、丘陵の上まで登りきると、左手に二の丸の郭、右手に三の丸と本丸の郭があり、二の丸と本丸との間の峰は意図的に掘切にして土橋を架けたのか幅が狭くなっていた。そしてその脇には何やら人工的な水溜まりがあったが、水堀と言うには中途半端なサイズなので井戸のような水の手のように見える。井戸のような水溜りに接するように土塁が残っており、土塁の北側が三の丸で、土塁自体は一段高い本丸の頂上と繋がっていた。

三の丸跡は雑木林になっていて奥まで入らなかったが、本丸腰郭と同じ高さの広い平場が形成されていた。三の丸と土塁を隔てた隣が本丸の腰郭にあたり、今は相撲の土俵が設置されている。そして腰郭と三の丸の間に小さな小山がありその頂上部が本丸跡となっていた。どうやら今は神社となっているみたいだが、頂上の平場には社殿は無く、小さな祠が設置されているだけである。まぁ、もっとも平場は狭くて建物は置かれていたようには見えず、物見台として利用されていただろうと想像される。本丸の裏側にも昔は数段の郭が展開していたというが、こちらはかつて学園のグランドが造られた時に削られて消滅してしまったようで、今はその学園も無く、グランド跡がフェンスで囲まれているのが見れる程度である。

一方、二の丸跡の方はかなり広い平場が形成されているので、館があったのはここら辺だろうと思われる。現在は貯水槽のようなものが設置されており、他には慰霊碑や館跡の説明板がある程度で木々も少なく北側への見晴らしが良い。二の丸跡の北側には小さなこんもりとした場所があり、おそらくこれが説明板にある経塚のことだろうと思うが、位置的に見て物見台跡のようにも見える。二の丸より北の下段には比較的広い腰郭が数段に展開しており、二の丸の脇からそちらへ降る道がある。道は腰郭を縫い、途中堀底道のようになって最初に登ってきた車道の入り口まで続いており、搦手の通路のように思える。


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[城跡]

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